もしも「どこでもドア」があったら?

20年ほど前、海外のお客の工場へ一人で出張し、二か月ほど過ごしたことがありました。

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海外といっても、現地パートナー以外英語がほぼ通じず(そもそも英語がしゃべれるかという話はさておき)、諸般の事情から客先宿舎から一歩も出られない、という場所でした。平日はその現地パートナーやお客と接していましたが、休みの日は全くすることがなく、テレビも言葉が分からず、とても手持ち無沙汰な日々です。自分でご飯を作り、あとはベッドで寝るだけ。そんな時に何をしたかと言うと、もっぱら妄想をしていました。

色々と妄想のお題はあるのですが、なかなか自分でも興味深かったのが、「もし、どこでもドアがあったら、どんな社会になる?」と言うものです。


 試しに考えてみて下さい。どこでもドアが現実的か否かはともかく、COVID-19で経験した状況とちょっと被るところがあります。


まず思いつくのは、移動の必要がない、もしくはほぼなくなる、ということです。これが何を意味するか。そもそも、俺はこんなところで悶々とする必要がなくなる! ということは真っ先に思いついたわけです。さらに、会社に行くにはドアの向こうへ踏み出すだけです。新入社員でもベテラン社員でも、簡単に出張に行くこともできます。通勤や出張の概念が無くなるわけです。旅行、し放題。新鮮な野菜もいつでも手に入ります。そうすると運輸業界は、大打撃でしょう。そうでしょう、そうでしょう。

ちょっと待てよ、通勤の概念が無くなるのなら、都市に住むメリットって何よ。病気になっても病院へサッと行ける、美味しいパン屋へもいつでもオッケー。コストコみたいな店がどこかに一店舗あればいいわけですな。これは便利。

不動産の価格は大暴落するだろうとか、車が売れなくなるだろうとか、好きなスタイルの食事がいつでもできるとか。この辺は簡単に想像がつく。

じゃぁ空気の綺麗な田舎に住むか。ムム、田舎に住む意味ってなんだろう。都市部に家があって、くつろぐときや寝る時に田舎に行ってもいいし。とにかく家の値段が安けりゃどこでもいいか。寝てる時に地震があると嫌だし、災害の少ないところがいいな。その時々で好きなところに住むのもいいかも。待てよ、そもそも家ってなんだろう。寝る場所?


この辺りからだんだんと抽象的な話に移ってきます。

家族と、別の部屋にいるように別な場所にいたって何の問題もない?ご飯と団らんを一緒にすれば家族と言える?家族とはご飯と団らんが一緒でなければならない?そもそも学校や会社に行ったって、昼休みは家に集合できるし、子供の一人暮らしはいらなくなる???

以前中東に行った時、砂漠にポツンと一軒家がありました。電気はついているので家族と一緒にいると思われます。でも、なんでこの人たちはわざわざこんなポツンとしたところに住んでいるんだろう。すぐ隣とは言わずとも、村の人と一緒にいた方が色々と便利なんじゃないか、と何とも言われもない哀愁感と、同時に家族ってなんだろうと言う気持ちになったことを思い出しました。

そもそもなぜ我々はそこにいるのか、他の誰かがそこにいるから、あるいはその誰かがいないから?

国内外含めてどこにでも行き放題の環境で育った子供は、どんなふうに何をIdentityとして育つのだろう。


当時、我ながら何をバカなことを考えているんだろう、と思っていましたが、どこでもドアにしてもCOVIC-19にしても人の居場所に関するエントロピーを増大させる方向になるようです。若干違うのは、どこでもドアが実態を伴った移動によってエントロピー増大となる一方、COVIC-19は情報によってエントロピー増大となる、というところでしょうか。